新規事業の「撤退基準の決め方」を解説する記事は、たくさんあります。KPIをどう設定するか、貢献利益で見るか——手法の情報は、世の中に十分あります。それでも多くの中小企業が撤退で苦しむのは、基準の作り方を知らないからではありません。そもそも撤退基準を、始めてから決めようとしているからです。

そもそも新規事業の多くは、黒字化にたどり着きません(新規事業の黒字化率はわずか7.4%? でも触れています)。だからこそ、うまくいかなかったときにどう手じまいするかを、始める前に決めておく価値があります。そして撤退基準は、まだ何も始まっておらず、いちばん冷静でいられる「始める前」にしか、まともに決められません。この記事では、なぜ事前に決める必要があるのか、そして中小企業が最低限、始める前に決めておくべきことを整理します。

なぜ「始めてから」では、まともに決められないのか

走り出した後の撤退判断を鈍らせるのは、主に3つの心理です。

  • もったいない(サンクコスト): すでに使ったお金や時間を惜しみ、「ここでやめたら全部無駄になる」と感じてしまう。実際には、使ったお金は戻らないので判断材料にすべきではないのに、引きずられます。
  • 言い出した手前(一貫性): 自分で始めると決めた事業を、自分でやめると言うのは、面目が立たない気がする。特に、社長自身が旗を振った事業ほどそうなります。
  • もう少しで(期待): 「あと少し続ければ成果が出るかもしれない」という期待が、撤退をずるずると先延ばしにします。

これらは、事業が進むほど強くなります。だからこそ、まだ思い入れの薄い「始める前」に、冷静な自分がルールを決めておく必要があります。

始める前 走り出した後
事業への思い入れ 薄い 強い(自分の事業になる)
サンクコスト ゼロ 積み上がっていく
判断のしやすさ 冷静に線を引ける 「もう少し」で延ばしがち

中小企業で、とくに撤退が難しい理由

撤退の難しさは、会社の規模によっても変わります。中小企業には、大企業とは違う難しさがあります。

大企業 中小企業
意思決定者 撤退を判断する役員と、事業の言い出しっぺが分かれていることが多い 社長が言い出しっぺ兼決裁者。自分でやめると言いにくい
財務インパクト 一事業の赤字は全体で吸収しやすい 少額でも全社の資金繰りに直結する
反対役 投資委員会・管理部門が客観的にブレーキをかける 社内に、遠慮なく「やめては」と言える人がいない

中小企業では、社長が事業の生みの親であり、かつ最終決裁者であることがほとんどです。自分が始めた事業に、自分で引導を渡すのは、想像以上に難しいものです。だからこそ、始める前のルール化が効いてきます。

始める前に決めておく「3つのこと」

撤退基準というと精緻なKPI設計を思い浮かべがちですが、中小企業がまず決めるべきは、次の3つで十分です。

1. 期限:いつまでに、何を見るか

「3年やってダメなら」では長すぎます。「6ヶ月後に、この数字がこうなっていなければ見直す」と、短く区切ります。期限がないと、撤退を判断する機会そのものが訪れません。

2. ライン:どの数字が、どうなったら撤退か

売上・利益・使えるお金(追加投資の上限)のうち、自社にとって致命的になる指標を1〜2個に絞り、具体的な数字で線を引きます。指標を増やしすぎると、どれかは達成できてしまい、撤退を先延ばしにする言い訳になります。

3. 誰が引き金を引くか

撤退を判断する人と、判断する場(例:半期に一度の見直し会議)を決めておきます。社長一人で抱えると「もう少し」に流れやすいので、外部の顧問など、利害のない第三者を同席させるのも有効です。

チェックリスト

  • 撤退を「検討する期限」を、月単位で決めたか
  • 致命傷になる指標を1〜2個に絞り、数字でラインを引いたか
  • 追加でつぎ込んでよいお金の上限を決めたか
  • 撤退を判断する人・場を決めたか(社長一人になっていないか)

「撤退=失敗」ではない、と捉え直す

撤退がここまで難しいのは、「撤退=失敗」と感じるからです。しかし、決めた基準に従って早く撤退できた会社は、傷が浅く、人もお金も次に回せます。ずるずる続けて資金を溶かした会社より、よほど健全です。

撤退基準は、事業を「諦めるための線」ではなく、次の挑戦のために資源を守る線だと捉え直すと、決めやすくなります。

よくある質問

Q. 撤退基準は、いくつ設定すべきですか。

多くても2〜3個にとどめます。指標が多いほど「どれかは達成できている」で撤退を先延ばしにしやすく、かえって機能しません。致命傷になる指標に絞るのがコツです。

Q. 撤退とピボット(方向転換)は、どう違いますか。

撤退は事業自体をやめること、ピボットは事業の方向を変えて続けることです。撤退基準に触れたときは、まず「やめる」か「変えて続ける(ピボット)」かを検討します。ただしピボットも無限には繰り返せないので、ピボットの回数にも上限を決めておくと安全です。

Q. 一度決めた撤退基準は、あとで変えてもいいですか。

変えること自体は問題ありません。ただし「基準に触れそうになったから緩める」のは、最悪の変え方です。変えるなら、判断の場で、なぜ変えるのかを明文化してから変えます。なし崩しに緩めないことが肝心です。

Q. 頭ではわかっていても、つい「もう少し」と思ってしまいます。

それが普通です。だからこそ、冷静な「始める前」に決め、判断を社長一人にせず、利害のない第三者を関与させる仕組みが要ります。意志の力ではなく、仕組みで先延ばしを防ぎます。

まとめ:撤退基準は、始める前の数十分で決まる

決めておくこと 中身
① 期限 いつまでに何を見るか(月単位で短く区切る)
② ライン 致命傷になる指標1〜2個に、数字で線を引く
③ 引き金を引く人 判断者・見直しの場を決める(社長一人にしない)

新規事業でいちばん難しいのは、始めることではなく、決めた通りにやめることです。そして「決めた通りにやめる」を可能にするのは、走り出す前の、冷静な数十分の相談です。

私たちのような少人数のコンサルティング会社が新規事業に関わる意味があるとすれば、勢いを後押しするだけでなく、始める前に「どうなったらやめるか」を一緒に決め、いざというときに利害なく「そろそろ見直しませんか」と言える第三者でいられることだと考えています。

この記事の執筆者:株式会社シン

中期経営計画策定・新規事業開発支援・経営顧問を専門とする、少人数の経営コンサルティング会社。 野村総合研究所出身の代表を中心に、幅広い業界での支援実績があります。 会社概要・代表紹介 →